阿波人形浄瑠璃の世界 トップへ戻る
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阿波人形浄瑠璃の歴史
人形浄瑠璃の起こり
人形を動かしながら物語を語るという形式は、東北地方のイタコが祭文を唱えながらオシラ神(養蚕の神)を遊ばせる作法に、その源流を求めることができます。
人形を動かして庶民の慰みとしたのは平安時代の漂泊の民・傀儡師が始まりで、室町時代には街頭で人形を使いました。その技も巧みになり、天皇の上覧に供したこともあります。
傀儡(くぐつ)という言葉が文字として出現するのは平安時代であり、『倭名類聚抄』をはじめ、『古事類苑』『今昔物語』『本朝無題詩』などに記されており、相当な活躍をしていた様子がうかがえます。
語りものの浄瑠璃は室町時代・享禄年間(一五二八〜三二)に琵琶法師によって始まったとされています。室町末期の永禄年間(一五五八〜七〇)には、琉球から渡来した三味線が伴奏として採りいれられました。さらに下って安土桃山時代から江戸時代初期の慶長年間(一五九六〜一六一五)、西宮の傀儡師と結びついて小屋をつくり、人形浄瑠璃芝居を興行するようになりました。やがて竹本義太夫による義太夫浄瑠璃が大坂(現在の大阪)で流行するや全国に広まり、江戸時代民衆の大きな娯楽となりました。『傾城阿波の鳴門』などの名作も数多く世に送り出されました。享保年間(一七一六〜三六)は人形の改良が画期的に進み、語りに合わせて人形の目や口が開閉し、五指が動いたり(享保十二年)、目が動いたり(享保十九年)するからくりが出現し、その目新しさで客の目をひきました。また、一体の人形を三人で遣う、三人遣い義太夫節(享保十七年)も案出されました。
 
藩主と人形浄瑠璃
阿波の人形浄瑠璃がいつから始まったのかは明らかではありません。しかし淡路人形芝居が隆盛したことにより、淡路の人形戯を阿波の百姓たちが習得し、阿波の人形芝居が起こることになります。さらに藩主蜂須賀家の庇護を受けて発展を遂げていきました。歴代藩主は、祝事のある度、上村源之丞座または市村六之丞に操り芝居の興行を命じました。初代藩主が三代目源之丞に対し俸役三本(十五人分の労役)の免赦したのをはじめ、七代目源之丞は城内での上演を仰せ付けられ、七年間他国での出稼ぎを差しとめられるなど、蜂須賀家との関わりを示す記録が『蜂須賀文書』等の資料に残っています。
 
座
淡路の人形座は江戸中期に四十あまりあったと記されています。阿波の人形座は残念ながら、藩政期の記録がなく、享保年間の人形師といわれる駒蔵作と伝えられる人形が現在十個残っていることから、淡路の四十座と比べて遜色のない数の人形座が存在したのではと推測されます。文化五年(一八〇八)から安政二年(一八五五)までの文献『元木文書』には阿波人形芝居の記録が詳しく記されており、人形座の興行が県下一円で広く行われていたこと、評判の芝居や、世の中の景気に応じた興行の成功・失敗などを知ることができます。玄人といわれる淡路の座は年中村から村へ旅を続け、子供浄瑠璃もあり、小屋掛けやお寺の境内で興行が行われました。一興行は十六日が主体。徳島の稲荷座では二十五日連続という長い興行の記録があります。一日の興行時間は午前九時半頃から午後五時までが多く、通しで七時間程度が普通でした。「忠臣蔵」のような作は九時間でした。
阿波人形座を調べる唯一の史料としては明治二十年ごろの天狗久の注文帖があります。「天狗屋久吉芸談」(久米惣七)によると、七十四の座と所在地、代表者氏名が記されています。おそらくこのころが阿波人形浄瑠璃の最盛期と思われます。注目される言葉として「阿波の人形座はほとんど素人座でござりました。全通しのお芝居は致しません。たまに池田、昼間、加茂あたりの人形座には淡路の玄人を加えて上演することもありました」「太夫は昔から淡路には少なく、阿波の太夫が多いと聞いております。三味線弾きは大部分が淡路の人が多かったようでござります」があります。

天狗久の注文帖
【天狗久の注文帖】

 
阿波の農村舞台
阿波では農村舞台が発達し、三百棟もありました。昭和六十年の調査でも百三十棟余りを確認しています。勝浦川流域や桑野川流域など、文化の中心である徳島との交流が比較的不便な場所に多く、吉野川流域には見られません。吉野川流域には立派な人形座が小屋掛けの舞台をつくり有料で演じていました。
農村舞台における人形芝居
【農村舞台における人形芝居】
 
衰退から復活へ
【内町小学校講堂での人形芝居
(昭和25年)】
大正中期の活動写真、幻灯、のぞきからくり、昭和期の映画、漫才、落語などの登場により、人形浄瑠璃は衰退の一途をたどります。さらに戦争により、多くの座は解散へと追いやられました。
しかし戦後、昭和二十一年に阿波人形浄瑠璃振興会が結成され、県下の太夫、三味線、人形座、人形師が結集。伝統ある「阿波の人形浄瑠璃』が復活しました。当時の座は十座を数えました。さらに昭和二十四年には鳴門市の鳴門源之丞座が、旧赤坂離宮において皇后陛下らの台覧を得ました。
昭和二十五年八月には、県下浄瑠璃大会が十五日間に渡って開催されました。その後一時の中断はあったものの、昭和五十年以降毎年開催され、県民はもとより広く浄瑠璃愛好家に親しまれています。また多くの若い後継者も育ち、阿波人形浄瑠璃を支えています。
 
人形芝居小屋掛けの図(徳島県立博物館蔵)
【人形芝居小屋掛けの図(徳島県立博物館蔵)】
 
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